ドンペリニヨン
今日も東京に来ています。
築地警察署に『風俗営業許可証』を返納するためです。
5階の生活安全課に行くと30才くらいの若い男性職員が当店に関した書類を用意して待っていてくれました。
それらをめくりながら、
「ずいぶん長いことやってたんですね。何の問題も起こさずに…」
感心したようにつぶやきました。
客とのもめごとや、ホステス同士のケンカなどで警察の世話にならなかったことをほめてくれたのでしょうか?
それなら飲食代の金額が気に入らなかった客が警察を呼ぶというゴタゴタが一度だけありましたが、それは記録に残されなかったようです。
「ご苦労様でした」とねぎらってもらって署を出ました。
数日前は消防署に『防火管理者証』を、保健所には廃業届けを添えて『営業許可証』をそれぞれ郵送で返納したので、私がすべき店舗営業に関する手続きはこれで全部終了しました。
肩の荷がおりました。
あとは帰るだけですが、電車の乗り換えが3回とバスにも乗るので片道4時間近くかかります。
いつもなら憂鬱になるところですが、今日に限ってはそんなことはありません。
家で、写真のドンペリニヨンが待っているからです!
人気の高い、美味なシャンパンです。
今日の出がけに冷やしてきました。
今の地に移って半年になりますが、お酒はほとんど飲んでいません。
やめたに等しいです。
今日はごほうびで、特別です。
このドンペリは閉店する時、お店からくすねて来ました。
いつかここぞという時のために取っておきました。
母を寝かせたら自室にこもってお気に入りのグラスで飲むつもりです。
自室の窓から家々の合間にですが海が臨め、そこから昇る朝日も見れます。
とてもきれいです。
澄んだ夜は、星も月も眺められます。
本来なら今日は満天の星を仰ぎながら飲みたかったのですが、近づいている台風の影響で無理そうです。
残念ですが、それでも飲みます。
多分、人生最後のドンペリです。
かつてないほど味わって飲みます。
さようなら、私のお店!
久しぶりに銀座に来ました。
管理会社に店の鍵を返すためです。
店は4月3日をもって閉店しましたが、借主名は今月末まで私になっています。
テナント契約の6ヶ月縛りによるものですが、今日鍵を返して全部が終わります。
担当者との待ち合わせ時間より早く来て店内に入りました。
3ヶ月ぶりくらいでしょうか?
室内は空気がよどんでほこりの匂いがしていました。
中はおおかた片付いていますが、このコロナ禍で次の借り手が見つからなかったので、ルール通り現状回復、つまりはスケルトンにして返さねばなりません。
この作業はありがたいことに管理会社が代行してくれることになりました。
かかった費用は預けてある保証金から差し引かれるのですが、自分でやるとなると業者を探して、打ち合わせや立ち会いなどもあるので大変でした。
それにしても店内のこの造作が取り壊されてなくなってしまうのは残念でなりません。
店の真ん中に立って店内のぐるりを見渡しました。
船室をモチーフにした、マホガニー調で統一されている内装です。
居抜き物件でしたが、当時30代の若さだった建築家の隈研吾さんがお客様でいらしていて、
「いい造りだね。落ち着くね」
来店されるたびほめて下さっていました。
管理会社の担当者も、
「こわすにはもったいない造りですね」
と惜しんでくれました。
この店で正確には34年と1ヶ月営業させてもらいました。
思い出がいっぱいです。
暇な時間に座っていた私の定置席を撮りました。
一枚撮ったら、ボトル棚や、更衣室なども撮りたくなってあちこち連写しました。
その後で、
「長い年月ありがとうございました」
見守っていただいた、お店の神様に手を合わせました。
管理会社の担当者が来たので3本の鍵を返却しました。
コロナ禍ということで手短に終了しました。
地下の階段を上って表に出ると、店名の並んだ細長い袖看板を見上げました。
今はまだ名前がありますが、その内には外されてなくなります。
いつかコロナが終息したのち、ここを通りかかったお客様が足を止めて、
「そういえばここに『フレンズ』があったな。まあまあのママがいたな」
とでも思い出してくれたらとても嬉しい。
働いてくれた女性たちも銀座に来た時はなつかしんで欲しい。
そしてコロナが消えたらいつか私もここに来たい。
どんな店に変わったのか、お客様として入ってみたい。
それまでお別れです。
暇な時さぼらせてもらった、真向かいの焼き鳥やさん。
店に飾る花をいつもていねいに選んでくれた、並びの花やさん。
胃薬ばかり買いに来てた、角の薬局やさん。
元気で頑張って下さい。
またいつか会いに来ます。
前途多難
昨日のことです。
我が母は起床すると毎朝のルーティンで畑を眺めに出ます。
だいたい15分くらいで戻って来るのですが、昨日は出たと思ったら血相を変えてすぐに戻って来ました。
「サツマイモがイノシシにやられてるよ!」
「ええっ! 本当に!?」
畑に出て見ると、確かに角地が何ものかに食い荒らされていました。
足跡も残っています。
ワンちゃんを連れたいつものおじいさんが通り、
「これはイノシシとハクビシンのしわざだな」
足跡を指差して、教えてくれました。
ご近所さんの畑が、イノシシやハクビシンにやられているのは耳にしていましたが、我が家は国道に面しているので車のライトを嫌う害獣は近よらないものとたかをくくっていました。
母は相当なショックだったようで、
「イノシシに食われる前に全部掘ってちょうだい!」
怒り心頭です。
干しいもをたくさん作るのを楽しみにしていたのです。
それにしてもサツマイモのうねは3列もあります。
これを一人で終わらせるとなると暗くなるまでかかりそうです。
ため息が出ました。
実は今日はパートタイムの仕事を探しに行こうと予定していたのです。
それどころじゃなくなったのでしょうがなく、朝食もそこそこに畑に出ました。
掘ってみると予想通りイモは小ぶりです。
本来の収穫にはまだひと月もあるので仕方がありません。
サツマイモを掘った跡地には玉ねぎを植える計画だったのですが、それも害獣にやられてしまうかもしれません。
今から心配です。
後で気がついたのですが、サツマイモと逆側に植えているサトイモのうねにもハクビシンの足跡らしきものが残っていました。
こちらも11月の収穫を待たずして食い荒らされてしまうかもしれません。
ご近所さんが次々と畑をやめる理由に納得がいきました。
始まったばかりの私の農業Lifeは前途多難のようです。
働きたい理由
先日、ショッピングモールに入っている大型スーパーに行って来ました。
面接のためです。
少し前からむしょうに働きたくなって私の年齢でも雇ってくれそうなパートの仕事を探していました。
見つけたのが『フラワーショップ』です。
花やさんで働いた経験はありませんが、花は好きだし、そこそこ知識もあるので募集を見た時はワクワクしました。
久しぶりに化粧をして、若づくりで来ました。
売り場を探すと結構な広さで、若い女性ばかりが4人、忙しそうに立ち働いていました。
スマホのチラシに、
「初心者さん 大歓迎!! ベテランの先輩が親切に指導します!」
と書いてあったので、そのベテランらしき人を探したのですが見当たりません。
しばらく中の様子をうかがいましたが、どうも年配の私などが雇ってもらえるお店ではなさそうです。
引き返しました。
並びの青果店とパン屋さんも覗きましたが、どちらも私のようなシニアは働いていません。
東京のスーパーでは、私の年齢は普通に働いていたと思うのですが、この地では違うのでしょうか?
コロナの影響で故郷にリターンする若者が増えているそうですが、そのせいもあるのでしょうか?
あきらめてバスで帰りました。
家に着くと、母が仏頂面でテレビを見ていました。
私が働きたがっているのが気にいらないのです。
自分の面倒だけをみて欲しいようで、
「今まで働いたんだからのんびりすればいいでしょう。貧乏性なんだから」
と非難します。
確かに貧乏性なところはありますがでも働きたい理由はそれだけではありません。
今の住居に移ってからは話す人が限定され、ケアマネージャーだったり、母の友人だったり、畑の作業中に声をかけてくれるご近所さんばかりです。
日中忙しくしている時はそうでもないのですが、夜一人になるとさみしさに押し潰されそうになります。
誰かと話したくてたまらなくなります。
パートの仕事で時給を稼ぎながら、同い年くらいのおばさんと友達になって世間話やグチを言い合いたい。
一石二鳥を望んだのですが甘かったようです。
ガラリと環境が変わってから5ヶ月ちょっとになりますが、こうも孤独感に襲われるとは想定外でした。
100歳
母には100歳ちょうどのお友達がいます。
二年前にリハビリを兼ねた体操教室で知り合い、以来仲良くさせてもらっています。
秋には101歳になられますが、とてもお元気です。
私は『おばさん』と呼ばせてもらっていますが、このおばさんがおとつい我が家に来られました。
病院の帰りだそうですが、様相がいつもと違っていました。
険しい表情で、車で送って来られた息子さんも困ったような表情を浮かべていました。
中に入ってもらって話を聞くと、今しがた行って来た病院の院長先生に、
「死ぬ時は病院がいいかい? それとも施設? やっぱり自宅かな? 三択から選んで」
と言われたそうなのです。
それも患者さんたちのいる待合室で、ニヤニヤ笑いながらだったそうです。
その時の状況を話してくれながらおばさんは、
「長く生きてちゃいけないのかしら? 皆の前で恥ずかしかったわ」
目元を真っ赤にしてくやしそうでした。
もうそこの病院には行きたくないと言います。
母の通っている病院とは別なので、その院長先生がどんな人なのか、どうしてそんなことを口にしたのかわかりません。
わかりませんが、100歳の方に対して医師が口にしていい言葉とは思えません。
悪気がなくからかっただけのつもりかもしれませんが、私からしたら暴言だし、おばさんの尊厳も傷つけました。
訴えてやりたいほどです。
おばさんはご自分の方がはるかに大変なのに、わが母を妹のように気づかってくれます。
ありがたい方なのです。
院長先生の言葉など気にしないでどうか一日も早くお元気を取り戻して欲しいと思います。
誕生日
今月の8日はMybirthdayでした。
68歳になりました。
誕生日がめでたい歳でもないのですが、母が憶えててくれて、
「これで何か買いなさい」
とタンス預金からこづかいをくれました。
福沢諭吉を2枚ですが、特に欲しい物もなかったのでそのお金で、ちょっとお高めの牛肉とメロンを買いました。
バースデーケーキもあったら良かったのですが糖尿病の母の手前遠慮しました。
母と二人だけの誕生日会の準備をしていると、近くのお寺の奥さんがハマグリを持って来てくれました。
時々、畑の野菜をおすそわけしているのでそのお返しのようです。
砂は吐かせてあるというのでフライパンを熱してその上に並べていると今度は、
「息子が釣って来たんだけど」
と、日頃から何かとお世話になっている、ご近所のおじさんがカワハギに似た地魚を持って来てくれました。
お二人とも農作業を通じて知り合った母の友人です。
私の誕生日など知っているわけもなくハマグリも地魚も偶然の頂き物です。
今、母と住んでいるこの家は41歳の年に『ついのすみか』として地元の大工さんに建ててもらいました。
店の女性たちにも保養所のように利用して欲しいと思い、海のきれいな地を選んだのですが、家屋が竣工するやいなや、
「家はね、人が住まないと傷むのよ。特に新築はね」
そう言って母は東京を引き払い、ちゃっかりと一人で住み着いてしまいました。
当初はあきれ返ったものですが、そのうちには庭先を耕して畑を作ったり、町内会にも参加して集落に溶け込んでくれました。
おかげで後から参入した娘の私はよそ者扱いされることなくすんなりと受け入れてもらえました。
「さあ、用意が出来たわよ。誕生会を始めましょう」
テーブルにごちそうを並べていると、表から太鼓や笛のお囃子が聞こえて来ました。
何かと思い窓外を見ると、マスクをつけた子どもたちが大人に先導されて花や人形が飾られた山車を引いていました。
今年の夏祭りはコロナ禍で中止と聞いていたので驚きました。
本来ならかなりの数の山車やみこしが練り歩く祭礼なのですが、今年に限って母と私が住んでいるこの集落から1基だけを出すことになったのだそうです。
偶然とはいえ、海の幸を頂戴したり、山車も見れて、何とも胸にくる誕生日でした。
銀座にいた頃のようにシャンパンもバースデーケーキもない誕生日でしたが、この地に歓迎されている気がしたのは思い過ごしでしょうか?
失ったもの
取引していた酒屋の担当者から電話をもらいました。
仕事が暇でしょうがないのだそうです。
それはそうでしょう。
彼の勤めている酒屋は銀座一帯のバーやクラブなどに酒を卸しているので、これらの店がきびしい今、注文が減るのは当たり前です。
「ママはいい時にやめましたよ。銀座なんて誰も歩いてないし、時短要請が始まったらもうおしまいですよ」
この秋に子供が生まれるという彼は転職も考えているとへこんでいました。
彼が口にした、
『ママはいい時にやめましたよ』というこの言葉、何人にも言われました。
カラオケ屋さんにも税理士にもビルの管理会社にさえもです。
日に日に新型コロナの感染者が増え、先が見えなくなっている今を思えばそれは確かにグッドタイミングだったかもしれません。
しかしながら手放しでは喜んではいません。
引き換えに大事なものを失ったからです。
それは銀座で懇意にしていた二人の『ママ友』です。
閉店を決めた時、この二人の友人に、
「一緒にやめない?」
と持ちかけました。
この頃、ニュースにこそなりませんでしたが実は銀座でもホステスや黒服のコロナ感染者が相次いでいて、夜の街には激震が走っていたのです。
コロナ感染したお客様も一人や二人ではなかった筈です。
コロナの怖さを説く私に、ママの一人は、
「借金があるからやめられない」と言い、
もう一人のママは、
「こうなったら3人でやろうよ」
と、ルームシェアならぬテナントシェアを提案してきました。
長い時間をかけて話し合いましたが、結果は決裂で終わりました。
私は、
『友人二人を置き去りにしていち早く銀座を去る裏切り者』になってしまいました。
あれから二人と連絡が取れていません。
何度か電話しましたが出てくれず、LINEを送っても既読になるものの返事はありません。
どちらも怒っているのでしょう。
昨日、目の調子が良くない母を連れて眼科医に行きました。
両目とも白内障と診断され、後日の手術に備えて、あれこれ検査を受けました。
説明や手続きも多く、正直疲れてしまいました。
介護タクシーで帰ったのですが、道中ふと、
「将来、私が白内障になった時は誰が病院に連れて来てくれるのだろう? 手術の手続きは誰がしてくれるのだろう?」
考えてしまいました。
息子がいますが、離れて暮らしているし、どこまで頼れるかわかりません。
二人のママ友とは30年来の長い付き合いでした。
何でも言い合えたし、しょっちゅう一緒に飲んでは、
「将来は同じ老人ホームに入ろう」
指切りもしていました。
気が弱っていたのだと思いますが、むやみと彼女たちのことが思い出され、介護タクシーの中であやうく泣きそうになってしまいました。