みんな夢の中
店を閉めてから二ヶ月になります。
今は東京から140㎞離れた地方に母親と二人で暮らしています。
先日嬉しいことがありました。
早朝の5時過ぎ、庭先に植えてあるキュウリのつるを支柱にからませていたら、
ワンちゃんを連れたおじいさんが通って、
「早くから頑張るね」
と、声をかけてくれました。
コンビニの袋を下げたおばさんも通って、
「トマトはもう『芽かき』をした方がいいよ。栄養が取られてしまうから」
キュウリの隣の苗木を指差して教えてくれました。
お二人ともご近所さんですが、4月に東京から移ったばかりの時は、
「おはようございます」
とあいさつしても完全無視でした。
東京で『3密』そのもののナイトクラブをやっていたわけですから敬遠されても仕方ないとは思っていましたが、それでも内心ではめげていました。
ひと月半が経って、ようやく『村八分』から解除された気分的です。
ホッとしています。
畑の作業を終えるとまだ寝ている母の朝食を作ります。
長年一人暮らしをしていた母は、娘の私が越して来るなり、それまで週に二回来てくれていたヘルパーさんを断ってしまいました。
なのでやることは結構あり、日によっては一日中動いています。
先日、母の通っている病院の待合室で、
『Nanae』のママが銀座の窮状を訴えているテレビ番組を見ました。
別の番組では『稲葉』のママや、『ル・ジャルダン』のママたちも銀座の行く末を憂えていました。
ですが、見ていても何の感情も湧きませんでした。
視聴者として俯瞰していただけでした。
お三方とも、街中でよく見かけましたし、共通のお客様がいたり、彼女たちの店のホステスが当店に面接に来たりと、そうした意味ではまったくの無関係でもないのですが、不思議です。
ひとごとのような気がしてならないのです。
店のあったビルや通りが映し出されても同じです。
私は本当に彼女たちと同じあの銀座の街にいたのだろうか?
疑いたくなるほどです。
それでも薄情なようですが、これで良かったのだと思っています。
閉店はしたものの、
あと10年は続けたかったので、執着や未練、はたまた喪失感といったものに苦しむのではないか?
女性たちやお客様を思い出して泣いてしまうのではないか?
そのあげくに酒に溺れるのではないか?
などなどマイナーなことばかりを想像して怯えていました。
でも取り越し苦労でした。
寂しさこそありますが、そこどまりでした。
日常に追い立てられているおかげでしょう。
子供の頃に、
『みんな夢の中』
という歌がはやりました。
歌詞の意味もよくわからずに口ずさんでいましたが、今の私の心境はまさにこの歌のタイトルです。
『みんな夢の中』です。
化粧をして着物を着ていたのも、美容室で髪をセットしていたのも、香水を振りまいていたのもみんなみんな夢の中です。